日本画家宣言

宣言をしなければならないこと自体が何やら変である。環境が、思想が、と大袈裟に言わなくとも、自分の吸っている空気も話している言葉も日本のものである。そんな私が描くのは日本の絵画以外あり得ない。ピカソはスペイン画家であり、ポロックはアメリカ画家である。ピカソが岩絵具で描いたとしても、ポロックが胡粉を撒いても日本画にはならない。

私はいわゆる「日本画」を描いたことがない。その画壇世界も知らない。しかし、どんなに西欧の美術様式を学び、油彩技法を研究しても、結局、その精神が自分と深く結びつくことはなかった。私には日本人として日本の絵を描くしか選択肢はないのである。むろん「日本の絵を描く」と言っても問題は山積だが、グローバルな国際的な絵を描くなどと言うよりは現実的だろう。

ところが、私は、日本の絵を描くにしても、自覚的な領域、教養的には、あまりにも不完全な日本人である。日本人として、その伝統に則った創作をするためには、学ぶべき膨大な伝統文化を抱えていて、それを自分のものとするには大変な労力を要する。それでも、プルーストの「失われた時を求めて」を理解しようと、フランス語を究めようとするよりは容易な道だ。

例え自分がどんなに心許ない日本人でも、豊かな伝統を持つ日本文化の、細やかな末端としての絵画を創り上げたいものだ。そのためには、失われつつある日本を何とか取り戻す工夫が必要だろう。そして、その努力こそが、自分にとっての絵画の意義なのだろう。
平成二十四年一月

失われた時

今から十数年前、プルーストの「失われた時を求めて」の鈴木道彦氏による新訳が出版された。この小説を、文学の世界における「大水浴図(セザンヌ)」、「アヴィニヨンの娘達(ピカソ)」、「大ガラス絵(デュシャン)」のように考えていた私は、これを機にと読み出したのだった。
出版そのものが長期に渡ったし、やはり読み易いものとは言えないから、最初の読書には十年あまり掛かってしまった。しかし、最終章「見出された時」を読み終えた時の感動は忘れられない。芸術には人生を賭す価値があるのか、そして自分はその芸術を創り出す力を持っているのか。このテーマが大きくせり上がってくるラストは、私を圧倒した。

そして数年前、自分の創作の転機を迎えた時、手がかりとして真っ先に浮かんだのはプルーストだった。その世界を絵画化する。予想される困難さが、かえって熱意を掻き立てた。失われた時とは、断片的な現在の知覚経験によって呼び覚まされる遠い過去のことか、享楽的な社交の中で失った時間か、そして、私にとっての失われた時とは何か。何度も読み返しながら一年半に及ぶ試作期間が続いた。
陳腐な物語挿絵を描いてしまうことを何より恐れながらも、結果としてそこへ陥ってしまったり、時間の象徴物を探しては、羽、貝、波、さらには複葉機と彷徨った。描いても描いても、出てくる絵は何かが違う。いや、根本的なところに間違いがあるかもしれないと、心の奥では訝った。

転換点は波だった。プルーストの「失われた時を求めて」との関係で、ジョイスの「ユリシーズ」とヴァージニア・ウルフの諸作品が気になっていた。そのウルフの「波」を読んだ時、これだと思い、時間の象徴としての波の研究に入った。ところが、波を見ていると思い浮かぶのは、プルーストの世界でもなければ、ウルフの「波」ですらない。意外にも何故か、日本の「平家物語」だった。
記憶の底に沈みながらも、完全には忘れ去られることなく、不意に浮かび上がるもの、それは日本の伝統文化、古典だった。それは、多大な時間を掛けて読み込んで来たプルーストをはじめとする西欧文学を超えて、意識しない日常生活の中に潜む感情なのだ。知識としては、全く日本の古典文学に疎い私においてすらも。

私はやっと理解した。「失われた時」とは、日本の伝統文化、古典であると。その失われつつあるものを、取り戻すべく絵を描くのだ。その中の志向としては、平家物語から源氏物語へと移ったが、日本古典文学をはみ出す根本的な変化はもう起きないだろう。
遠い昔、絵を描き始めた頃から、いったい何をどう描いたら良いのか、モチーフと描き方の間を行き来してきた。何故自分は絵を描くのかを抜きにして。それを見つけた今、モチーフと技法の問題は、相対的に易しくなり、こだわりも消えた。誰もが描いてきたもの、絵に描くべきと思われているもので何の不足があろうか。

最終章「見出された時」、主人公には時間がない、それは肉体的な問題だ。人生の目的を見つけたものの、作品を完成させるまで虚弱な身体が保たないかもしれないと言う不安。カウントダウンを知ったのだ。それは健康体であっても同じだろう。寿命ほど真の作家生活は長くはないのだから。
平成二十三年三月