2.23 江ノ島遠望・七里ヶ浜
 映画「ハワーズエンド」を見ていたらフルオーケストラのクラシックを聴きたくなりました。このところ渋い室内楽やソロ、しかも古典かバロック、それをBGM的に静かに流すのが音楽習慣となっていたんですね。十年以上も。
 で、ロマン派協奏曲を大音量で鳴らそうと思ったらCDをほとんど持っていない。甘美なメロディのこれらは若い時の趣味で、あるのはLPレコードばかり、音痴のくせにいつの間にかイヤらしい見栄が芽生え、マイナーなバロック以前の音楽やバルトーク等の20世紀音楽に移ったんですよ。
 それで、早速アマゾンドットコムで買いました。「チャイコフスキーピアノ協奏曲第一番・ラフマニノフピアノ協奏曲第二番」「メンデルスゾーンバイオリン協奏曲・チャイコフスキーバイオリン協奏曲」「グリークピアノ協奏曲・シューマンピアノ協奏曲」「スメタナ連作交響詩わが祖国」甘い素人趣味かもしれませんけど、実際、自分がそうなんだから仕方ないです。
2.19
 このところ日記を自分の中でのある種の実験に使っていました。結論は失敗と言うか、よく考えてみればはじめから判っていたことかもしれません。様式を強要しない表現など何ものでもないですね。初歩的な自由の罠でした。自分のために書く・描く、と言うのも一見安心して寄りかかれる芸術の真理みたいですが気を付けないといけないですよ。

 来月から描き始める女の子は、資料の写真を見ていると最初気付かなかった予想以上の可能性を秘めているようです。例えば頭蓋骨の奥行きなんかは理想的で描きがいがありそう。すると髪型が課題になりますね。不得意分野です。
 よく思うのは、学生時代、人物をやたら描かされましたが、服装や髪型はまったく無視、言い換えればファッションとヘアーメイクになるわけですから、あの油絵科では、まぁ無理な注文、しかし実際、自分の作品を造ろうとすれば真っ先にぶち当たる問題なんですよね。
 もちろん当時の教授達が何を考えていたかは理解できますし賛成できることも多いんです。でも、造形という言葉をあまりにも芸術的に限定していたような。ちなみに今回、その子には化粧厳禁と言ってありますけど。

2.17
2.16 覚え書き
ほんのひとタッチで絵はガラリと変わる。ハイライトが絵全体の光を変える。その効果と制御。悪名高き細部描写、しかし、それも空間と奥行きを与える。逆のように言われるが。

ウルフの本が二冊届いた。エッセイ集「病むことについて」、それと日記。エッセイ集の表題はあざとい。多数収録された中のひとつに過ぎないのに。

いったい私にいつかこれを再び読むことができるだろうか。赤面したり、ふるえたり、隠れたりしたくならずに自分の書きものを印刷されたかたちで読むことに耐えられる時が来るだろうか。(ウルフ)

これがディレッタントと芸術家を分ける境だ。

少なくとも意識的なレベルでは自分について語ることをほとんど持っていない。と、ウォーホルのようなことを言ってみる。

2.15

2.14 覚え書き
ヴァージニア・ウルフの自序に惹かれる。小説より硬質だ。エッセイや書簡集はないか。

自作へのコメント、あの環境でなかったら違った条件なら、描けるはずだったという幻想。一見冷静な自己判断に思える作品への悪口にも隠れている欺瞞。自分でも気付かない。

この子で描く作品を、小品連作にするか、大作にするか。鎌倉シリーズのイメージはもう弱くなった。風景や小物、添え物に頼れば作品になるわけではない。まず絵を描いて理論はその後に生まれる。無心のデッサンが先だ。

2.13 覚え書き
絵画とは視覚的なものだろうが、見える程度に描けばよいとは限らない。

作品を見ていなくとも履歴や言動、自分の経験から予感がたつことがある。彼は傑作をものにするか。

肌の色、顔かたち、人間らしく、それだけでも難題だ。象徴物の付け足しでなく、色彩と形本来の表現力だけで習作を作品のレベルまで持ち上げる。どうすればできるか。

白い壁、白い箱、白い布、グレーをはっきりと白のトーンとして感じさせること。

白い光の多様な反射の中に二十歳の肉体を反復させたい。

2.11 覚え書き
制限された中で表現の可能性を探ること。

逆に、表現のためにはあらゆる手段を取ること。
花を持ちエレベーターでロフトを上るクラリッサ、外は冬の撮影、中は夏の撮影、花は別物のはず。また、ウーズ川の流れをプロペラで逆流させた。

自己の能力を超えたところにイメージを持つこと。あるいは未体験の条件で描いてみること。突破口は見出すと言うよりは自ずとから現れる。

表現の自由とは不安を抱えて創作することだ。安心な自由の気分には欺瞞がある。

現実は心の中にしか現れない。リアリズムはファンタジーとなる。

芸術に対する憧れを誇示する人間ほど芸術家にとって危険な存在はない。

2.9 覚え書き
画家は日常の中で普通の人が見逃しているものを見ているのかもしれないが、自分の場合、絵を描かなかったら大切なものも分からず、創作によってかろうじて常人となっている人種だ。

衣装あわせが苦手だとしてもモデルに任せっきりは良くない。限定された服の中でイメージを膨らませなくては。

絵画において可能な表現と自作で使うべき表現を考えよう。小物による象徴は否、微かなポーズの変化は良し。

少女を描く際、子供の部分と大人の部分をどう表現するか。

3月からの人物画、鎌倉の高校生イメージがもっと普遍的なものに変わってきた。普遍的ということは身近なところから出発すること。

この子は首の出方と肩胛骨が綺麗。

2.8 覚え書き
よく確かめもせず「めぐりあう時間たち」関係本を買ったら、英語学習用のシナリオ・字幕本だった。

考えてみると映画の字幕は翻訳とは違う。制限が多い分かえって訳者の創作物となる。

「ダロウェイ夫人」、最初に買ったみすず版が一番読み辛い感じだ。

小説の不満とひとつは、自殺未遂を繰り返し、ついにしてしまったウルフの作でも死の匂いがあまりしてこない。

映画で好きなシーンのひとつ、母の写真とエイズ薬を前にしたリチャードのアップ。それに重なる町の雑音、サイレンの音、死を強く感じる。

I believe I may have a first sentence.
「出だしを思いついたの」
映画の冒頭、芸術家と心を通じた配偶者だけが分かるシーン

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