美術における平面
放浪派のレクイエム (自称最前線の巨大なイリュージョン)

 ある時、目白の某美術系予備校で、生徒達を前に講師が生徒の風景画を手に取り、裏返して、画布をポンと叩いてみせた。彼はこう言いたかったのだ。
「絵画の真の姿は、自然に対して開かれた窓ではなく、奥行きを持たない平面なのだ。」
すなわち、絵画のリアリティは平面であり、描かれた対象はイリュージョンにすぎないということである。また、ここに、イリュージョンよりリアリティに価値を置く芸術思想を見ることができる。このような、イリュージョンを極力排していこうとするのが現代美術の方向のひとつであろう。さらに、これは次のように展開される。

「しかし、平面も現実的存在ではない。二次元は抽象世界にしか存在しない。絵画の現実的姿とは画布と絵具である。」絵画は、ついには、現実世界に存在するひとつの物体となる。ミニマルアートやオブジェと呼ばれる作品に、この思想の具体化を見る。イリュージョンを排していく流れの中で、絵画にイリュージョンとして存在した空間の問題は、(これは、美術において、あまりにも重要な問題だから消えてしまうことはない。)現実空間へ場を移す。画家達は、パフォーマンス、インスタレーションヘと向う。

 だが、ミニマルアートやオブジェ、パフォーマンスやインスタレーションが、イリュージョンを含んでいないと言い切れるだろうか。純粋に物質それ自体しか思わせない作品がありうるだろうか。どれほどイリュージョンを切り捨てたミニマルアートでも、新たなイリュージョンを生み出さないわけにはいかない。インスタレーションも現実空間に新たなイリュージョンを創り出す仕事なのである。ある友人が言った、真のリアリストとは、芸術のようなロマンチックなものになど係わらない普通の生活人に留まるのだと。

けれども、日常生活の中で、イリュージョンをすべて消し去り、人生を物質世界の運動の一断片として送っている人がいるだろうか。特殊な場において、一時的にこのように考える人々は多くいるだろうが。だから、単にイリュージョンを否定していく芸術思想は、人間的世界の否定へと到る。これは真実を求めて、タマネギの皮を剥いていくような不毛な思想ではないだろうか。

 絵画の人物像は、現実の人間そのもののように、存在感や多様性を持つことはできないだろう。画面に暗示された空間より、現実空間のほうが、直接に人の感覚に訴えるのはあたりまえである。芸術は現実とは別のイリュージョンである。人間が現実認識を拡大していくためのひとつの手段である。だから、すべての芸術様式は、それがイリュージョンであるからという理由で否定されるべきではない。伝統的写実絵画から、インスタレーションまで現実認識の方法として認められるべきである。とは言っても、様々な様式に対する私的な価値の高低は否定し難く存在する。

 現実からの独立性、永遠の矛盾性ゆえに、絵画―平面世界は、私にとって捨てられないものである。絵画の私的定義はこうである。「絵画は、現実を探究する窓であり、 同時に、平面としての存在を主張する壁でなければならない。そして、その存在は、非現実的、抽象的である。」絵画が奥行きを持った平面であることにその根元的矛盾性がある。この矛盾性の追求がジョット以来の西欧絵画の歴史である。また、この矛盾の緊張感の大小に、絵画における古典性の有無を見るのである。真の古典性を持った絵画と、単なるアカデミズム絵画の差はここにある。

イタリアルネサンス絵画を、ベラスケスを除くスペインバロック絵画より高く評価する理由も同じである。西欧絵画史において、この根元的矛盾性の緊張感の増減を見たとき、ルネサンス以降の絵画の脆弱化と、セザンヌによる古典復活が理解できるのである。セザンヌに続く、ピカソ、ブラックのキュビスムも、絵画の平面性の保障と、その内に立体を表現する矛盾を生命としていたのである。ここから、キュビスム的技法の使用者と真のキュビストの違いがはっきりするのである。

 平面は、現実の世界に平行する抽象的な別世界であり、また、そこでは、線や面や色彩といった非現実的な絵画言語が使われる。例えば、リンゴはリンゴ以外の絵画言語の関係の中に現われ、奥行きは平面上の諸要素の組み立ての内に表現される。この現実に平行した間接性ゆえに、画家は、非日常的な注意力を現実に対して向けねばならない。絵画は現実認識の最良の手段となる。そして、画家は、三次元の現実世界に存在する対象を、二次元の平面世界に実現するためには、平面の諸法則に従い、その平面性を保障しなければならないという不思議に出合うのである。

 以上のような絵画の矛盾に満ちた中間的性格のために、凡庸な画家(当然、私自身も含む)は、制作の甘さに落ち入り易いのである。つまり、現実再現能力の不足を、平面性の保障を理由として弁解し、平面秩序の破綻を、現実描写の必要性により正当化するのである。芸術は現実とは違うもうひとつの世界であるという意識が、いつのまにか、単に、現実と違ってもかまわないという表現の曖昧化に変質してしまうのである。このふたつの意識は、明確な境界を持たないだけに危険でもある。

 テレビを付けても、雑誌を見ても、世の中、パフォーマンスである。画廊を回ればインスタレーションである。画家も造形作家と名前を変えて、平面空間から現実空間へと飛び出さなくては時代に乗り遅れてしまいそうである。パフォーマンスやインスタレーションのような、現実空間そのものを現実認識手段とする仕事は、空間的矛盾がなく、イリュージョンは最小で、リアリティに豊んだものだろう。それは、絵画や彫刻よりも強い存在感を持つ。造形作者は生活と同次元の新しいイリユージョンを創造する。この新芸術は確かに前衛である。芸術の最前線である。なぜなら、その表現の場が、絵画とは別の意味で、あまりにも危険なものだからである。芸術は命を落とすかもしれない。

 抽象の家を捨てて、現実空間へ出れば、人々の現実認識を深化させ、その心を動かすのは、芸術ばかりでなくなるのである。世の中には、芸術の働きを持った雑多な非芸術が渦巻いている。日常的な生活空間を一変させる大土木工事、五感をすざまじく刺激する遊園地の大仕掛け、そして、人間の存在を揺さぶる悲劇的事件、平面絵画など新しい造形作家の敵ではない、もう次元が違うのである。同じ土俵に立っているライバルはこれら非芸術である。彼らは、現実空間の芸術と非芸術の違いを上げるだろう。芸術には芸術家がいて、その意図があり、生活上の用途がない。

しかし、美術史が語る通り、そんな特徴はやがて消えてしまう。この芸術と非芸術の人に与える印象は分け難く似ている。そればかりか、よほどの美的構成か巨人なスケールがないかぎり、パフォーマンスやインスタレーションより、非芸術のほうがはるかに人々を動かすのである。芸術は、それとは違うと口で言っただけではダメである。パフォーマンサーは、鑑賞者の五感を納得させるためにも、強大な非芸術群と戦わなければならない。クリストの制作のスケールはけっして過剰ではなく、必要量なのである。

 現代における前衛運動は、過去の前衛連動が持ち得ず、旧体制芸術の特権であったひとつのイリュージョンを持っている。それは、作品が置かれる美術館、画廊という場、評論家による評価、美術ジャーナリズム等、作品の回りの美術状況がそれを芸術に仕上げるイリュージョンである。このイリュージョンの価値に対して否定はしない。ただ、ふたつの美術事件をここに記しておく。

 第一のものは、一九三〇年代〜四〇年代にオランダで起ったハン・ファン・メーヘレン事件である。メーヘレンは画家であり、彼は、自分に対する評論家の不当に低い評価を、フェルメールの偽作を描くことで証明しようとした。彼は人々が目でなく耳で絵を見ることを知っていた。彼の偽作は完全な成功を収めた。全ヨーロッパが、彼の作品をすばらしいフェルメールの作品として認めた。事件はメーヘレン自身の告白によって明るみに出たのである。専門家達を納得させるために、彼らの眼前で″フェルメール″を描いて見せようとすらした。それほどヨーロッパ美術界は信じ切っていたのである。問題は騙されたことよりも、その ″すばらしいフェルメール″の駄作ぶりなのだ。フェルメールの作品を求めるヨーロッパ美術界が当時持っていたイリュージョンである。このイリュージョンがメーヘレンの腕前を補ったのである。

 もうひとつは誰もが知っている、マルセル・デュシャンが一九一七年に、「泉」と題して便器を出品した事件である。彼は一人で、メーヘレンの役と評論家の役を演じた。もちろん、デュシャンの美的センスはメーヘレンより数段優れている。この物の選択のセンスに、展覧会、芸術家というイリュージョンを加えると、芸術作品「泉」ができあがる。デュシャンは、美術史の中でやがて忘れさられるように芸術を創ったのである。(今だに忘れさられないのは、彼に対する私達の不誠実である。)

 作品自身が持たない外的イリュージョンには価値がないと言ってしまえば、あらゆるイリュージョンに明確な差はなく、すべての芸術がそれを排する流れの中で消えてしまうことを、当然、デュシヤンは計算していた。この時から、旧体制の特権だったイリュージョンを前衛も手に入れたのである。

 マルセル・デュシャンは大意識家であった。おのれの創ったイリュージョンに酔ったり、目を覆われたりすることはなかった。彼は芸術をやめ、単なる生活人となることでけりをつけた。パフォーマンスやインスタレーションを行なう造形作家達は、自己の芸術空間と非芸術空間の差が、特殊な美術界が賦与するイリュージョンにしかないかもしれないと意識することがあるのだろうか。結果が、非芸術にどんなに似ていても、結果でなく過程が大切なのだと彼らは言うだろう。しかし、鑑賞者にとって芸術の過程など、個人生活にすぎない。創作者においてのみそれは価値を持つ。クリストが、どれほど多くの一般の人々と共に創作するか考えてみると良い。

平面という芸術と非芸術を区別する抽象世界(そこは、画家にとって安住の地だった。)を捨てて、現実空間へ飛び出した画家は、平面に留まっている者達より、客観的立場として前衛である。けれども、そのあまりにも危険な前衛性をどれだけ自覚しているのだろう。彼らは、巨大ダム工事よりも空間を変化させ、スペース・シャトルよりも空間を拡大し、オリンピックよりも多くの人々を参加させ、アウシュビッツやヒロシマよりも人間存存を問い詰めなければならなくなるかもしれない。前衛とは厳しいものだ。小学生すら、″いじめ″という命掛けのパフォ−マンスをやっている。

 やがて、芸術は生活によって終止符を打たれるだろう。墓穴を掘ることもパフォーマンスのひとつである。

 芸術批評誌「オリヴィア」1986年4月号(エステティカ・オリヴィア刊)より掲載