油彩画 技法的側面からの私的美術史

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 年表
一七八〇 コバルト・グリーン
一七八二 ジンク・ホワイト
一八〇二 コバルト・ブルー
一八〇九 クローム・イエロー
一八一七 カドミウム・イエロー
一八五八 ビリジアン
一八五九 コバルト・バイオレット
 産業革命の後を受けて19世紀は発明の世紀であった。それが油彩画の材料に及ばない理由は無く、ぞくぞくと新しい顔料が発明された。これら新しい顔料は今世紀の石油化学による微粒子類料と共に現在油絵具の主流となっている。

だから、今私達の使用している油絵具の多くが、19世紀以前の画家のパレットにはなかったことになる。彼らのパレットは私達のパレットよりずいぶん貧しかったようだ。

 この19世紀の色彩の豊かさは、印象派による色彩革命の可能性を準備したが、一方では油彩画技法の伝統が跡絶えた時期でもあったため、技法的大混乱を招いた。当時の顔料の中には、その性質の悪さのために今日では画家のパレットから追放されたものも含まれていたし、顔料自体は悪くなくとも、画家がその正しい使い方を知らなかったために、この頃の油彩画は様々な災害を来した。

 では、その中から顔料の化学変化による変色を取り上げてみよう。この変色はある特定の混色で新しい化合物が形成されて起る。例えば、カドミウム・イエローとシルバーホワイトを混ぜてできた色は時間の経過と共に黒ずんでくる。

これは硫化カドミウム(カドミウム・イエロー)と鉛白(シルバー・ホワイト)による化学変化−硫化物+鉛→硫化鉛−が原因だ。少し大げさに表現すると、黄と白から黒(硫化鉛)ができたことになる。

このような絵具の「食い合わせ」はその他にもいくつかある。(但し、この硫化物と鉛の変化については、顔料の精錬が良くなった最近の絵具ではあまり見られない。)大切なことはこのような危険性は19世紀の画家だけが被っていたのではなく、フランドルの巨匠達の時代からあったということである。

絵具の数こそ少なかったが、彼らも硫化物と鉛を同じ画面に使った。しかし、その時代には、絵具の中にまだ樹脂が豊富に含まれていた。樹脂が顔料間の絶縁層となり化学変化を防いだ。ところが、19世紀は樹脂の破棄による絵具の不透明化の時代だったのだ。

様々な絵具の出現と、伝統から断絶した画家の技法的無知が最悪の世紀を創った。(私達日本人はこの頃に西欧の油彩画技法を摂取したことを覚えておくべきだ。)

 この世紀前半の画家としてウジユーヌ・ドラクロア(一七九八〜一八六三)を上げよう。彼は顔料の化学変化を意に介することなく、生乾きの画面に絶えず筆を加えた。下の絵具層が乾かぬうちに描き加えたり描き直したりすることはこの時には一般化していた。

ドラクロアは色彩の画家としてセザンヌ等後輩達から絶賛されたが、その美しかったであろう彼の画面を、現代人はもう見ることができない。彼の画面は変色や退色等多くの災害に見舞われ、制作当時の色の輝きを失ってしまった。そして、悲しくも、ドラクロアの技法的欠陥は彼の表現上の独創性と密接に結び付いていた。

「未乾操の彩色層にリペイントする場合は、相互に変質性をもつものや艶引けに対して十分の考慮を示して来たのが古典なのであるが、ドラクロアの場合はダイナミックな感動を支えるブラッシュストロークの流動性が、彩色効果として塗り込む肌から描きつける肌になっている。このことは表現上やむを得ぬ感動の証左ではあるが、マチェールの生命は短くなる宿命的な関係をもつのである。」
(寺田春弌著「油彩画の科学」より)

 19世紀後半は印象派の時代となる。技法的には印象派の画家達は完全に古典から離れてしまっている。絵具は不透明に、画面は光沢のないマットなものとなり、作品はアトリエで慎重に創られるのではなく、屋外で多分に即興的に描かれるようになった。彼らはエスキースや記憶によってではなく眼前の光の効果によって描こうとした。

当然印象派の技法はこの移ろい易いビジョンに従った。絵具が生乾きの状態で常に描き加えられた。ビジョンの変化の度合いに油彩画材料の特性がもはや完全に付いて行けなくなった。ルネサンスの客観的世界像は崩れ掛かっていた。現実を己が眼で探る冒険で、印象派の画家達は古くなった地図を捨てようとしていた。

しかし、彼らによってルネサンスの明暗法が色分解はされたが、遠近法や形体に関しては、彼らはまだルネサンスの枠の中で曖昧さを増しただけだった。ルネサンスからの現実に対するビジョンの真の独立は、セザンヌの成熟を待たねばならなかった。

 ルネサンスの遠近法的世界観から離れて人間の新しい世界観を築いたのがポール・セザンヌ(一八三九〜一九〇六)だった。彼の革新性は単に古い地図を捨てて冒険に出たことだけでなく、けっしてビジョンを固定する地図を作らないということにあった。

一枚の絵に対してひとつの世界像が存在した。セザンヌは制作のたびに新しいビジョンを切り開く。サントヴィクトワール山を繰り返し描く時も完成を想定することなく白紙から始める。彼は「中立状態で出発する」と言った。以前の自己の様式にも縛られない。

 さて、このセザンヌの態度と、油彩画技法の要請する制作の計画性、ビジョンの確実性は折り合えるだろうか。見通しの効かない彼の制作方法において「描き直し」を頻繁に行わないということが考えられるだろうか。画家にして技法研究家のグザヴィエ・ド・ラングレはセザンヌについてこう語る。

「セザンヌの色層は、油脂っぼくはなくてむしろサラサラしている方であるが、彼は充分に乾かさねばならないものを、自分の気に入らない部分をいつまでもつっつき直さずにはすまされないという気弱な画家であった。『スープ容れのある静物』にみられる幅広く深い亀裂(亀裂というよりは裂け目)は、彼のやり方が技術的には決してすぐれているとはいえないことを証明している。」

「セザンヌは、ワイシャツの烏賊胸がほぼ満足すべきようになったと言うまでに、一回五時間のポーズを一一五回要求した。もしこの話が、この偉大な画家の芸術的意識を好意的に証明しているとしても、彼が用いた方法の要求するものと表現能力に対して無知であったことをさらに悲劇的に強調するに外ならない。」

 確かにセザンヌは気弱になることもあっただろう。誰れも描いたことのない世界にたったひとりで向っていたのだ。当り前のことだが、セザンヌのビジョンとその技法は切り離して考えることはできない。たとえフランドルの技法やその他の油彩画技法すべてを知っていても彼は彼のやり方を変えなかったろう。

 セザンヌ以後、画家は遠近法から解放されたのだが、彼らが投げ出された世界は、周到に計画された制作や、画家の術中で様式化ができるような親しげなものではなかった。現実を再現することは画家にとって途方もなく苦しい道となった。

 油彩画の技法史は、時代のビジョンや様式との関係をぬきには語り得なかった。油絵具という材料は、それに先立つフレスコ・テンペラと較べて自在であり、新しい現実描写の可能性を開いたが、そのことが画家の自由を求める気持をくすぐり、画家のビジョンの自由さが技法の制約を大きく越えた時、油彩画は物質的存在の保証を失った。

 では、現代の私達にとって油彩画はどんな価値を持つのか。依然として絵画の手段でありうるのか。そして現実を再現するという「絵画」が今も成り立つのであろうか。

芸術批評誌オリヴィア(エステティカ・オリヴィア刊)1984年11・12月合併号より