今、日本で油彩画を描く人々は、一体どのくらいいるのだろう。学校教育においては、中学の部活動でもう油絵具を使い、高校では正課のカリキュラムに油彩画を入れる所もある。
新聞の案内欄には趣味のグループの油彩画を中心とした発表会が目立つ。これらをまとめればかなりの数になるだろう。高校生以上を対象とすれば、もっとも普及した画材といってよい。
油絵具が何故ここまで広がったのか、それは表現技法の多様性もあるだろうが何よりも「描き直し」が何回でも効くことによるのだろう。この被覆力の大きな絵具によれば一度描き上げたカンバスに別の絵を重ねて描くことすらできる。つまり失敗は全面に渡って許されている。
少し使い慣れれば、絵画の道の初心者にとってこれほど自由な画材はない。水彩絵具では「描き直し」は効かないし、テンペラ・フレスコは扱いが難し過ぎる。油絵具に代るものとして出てきたアクリル絵具は、乾燥速度や発色が油絵具と違うためか、それはど人気がない。まさに油彩画は日本では、特に日曜画家にとっては絵画の王様である。これは画材店で油彩画材料の占める場所を見れば必ず納得できる。
しかし、日本での油絵具の一般的な使われかたを見ると、アウトバーンを時速二百キロで走れる西ドイツの車が、日本の混雑した狭い道をノロノロと動いている様を思わせる。油絵具の使い易さには大きな落とし穴がありそうだ。ここで初歩的な問題をひとつ出してみよう。
「油絵具はどのようにして乾くのか。」 水彩絵具は、絵具に含まれる水分が蒸発して乾く、ならば、油絵具は絵具に含まれる油が揮発して乾く―のではない。その乾燥―いや固化のメカニズムはこうだ。
「油絵具の中の乾性油は、空気中の酸素を取り入れ酸化重合によって複雑な分子構造を持つリノキシンを形成し固まる。このリノキシンは、ベンジンを除きテレビン精油やエーテルや、濡れた油を溶かす他の総ての溶剤にも溶けない。」
これから次のことが分る。油絵具は乾燥する前とその後では物質が変る。酸化によって重量が増しさえする。だから水彩絵具のように溶剤(水彩絵具では水)によって元の状態に戻ったりしないので、下色と混ざらない色の塗り重ねが油絵具では可能なのだ。
さらに、空気と触れる表面から酸化するため最上層に膜を形成し酸素の通りが悪くなり乾燥を遅らせる。油絵具が完全に乾くには数ヶ月から一年もかかるわけだ。この独特の乾燥のしかたが、絵具の塗り重ねや「描き直し」に重要な問題をもたらしている。
先に述べたことはある種(職業として絵を描く者の義務の範囲を広く取っている人々)の画家にとっては、まったくの常識であるが、一般の油彩画を描く人々にとってはどうだろうか。実際、美術大学で油彩画を専攻する学生、彼らの中には油絵具の乾燥のメカニズムを水彩絵具同様と思っている者がいる。
ましてやアマチュア画家においてはあまり期待できない。但し、美大生の材料知識の無学は弁護されるべきだ。彼らは受験時代には造形上の問題が大き過ぎて油彩画の組成に気をくばる余裕などなかったし、大学ではまともな絵画組成講座に出会える機会が少ない。
油絵具は普及しても、その知識、特に油絵独特の技法はあまり知られていないのではないか。芸術史の表通りとして絵画様式の変遷は良く知られているが、技法史は裏へ追いやられていた。この油彩画の技法について考えてみることにしよう。
七〇年代以降、日本の美術界の一部で印象派以前の西欧の伝統的な油彩画技法の研究が盛んになった。この頃から絵具組成に関する特別講座が大学で開かれ、学生によるカンバス作り、テンペラ・フレスコの見直し、いわゆる古典絵画調の絵の流行、これらに呼応した画材メーカーの新製品発表と続いた。当時油彩画技法の理想形態として注目を集めたのは、15世紀のヴァン・アイクを中心とするフランドル絵画だった。
油彩画技法を完成したといわれるヴァン・アイクや、フランドルの画家達の油絵具は、その技法はどのようなものだったのか。その絵具は透明で光沢があり、画面には極く薄く塗られ、明るさの表現は透けて見える地の白さを利用して行われた。明るさを得るために絵具に白を混ぜることはあまりなかった。
絵を描く手順は、まず板の上に白亜によって明るい地を作り、デッサンをして地の白さを生かしつつ単彩によって下絵を描く。筆は柔らかい毛質のものだけが使われる。下絵を長い時間かけて乾かして仕上げの塗りに掛かるが、色価を深めるためにのみ絵具は塗り重ねられる。「描き直し」のために塗り重ねられることはほとんどない。透明なこの絵具では完全に描き直すなどということはできなかった。
乾燥に時間がかかり、やり直しの効かないこの技法で描かれた絵は、五百年以上たった今日でも画面は美しい光沢を保ち新鮮な発色を示している。フランスの画家グザヴィエ・ド・ラングレは次のような序で彼の技法書を書き出している。
「それでは、現代の、なかでもごく最近の作品の特徴をなしている絵具の貧弱さ、コクのなさ、脆弱さ、重苦しさ、黒ずみのひどさ、ひび割れは、どこに起因するのであろうか。このことを確かめようとするなら、どんな美術館でも確かめられる。すなわち、もっとも保存のよい作品、もっとも色彩の鮮かに残り明るい画面に保たれている作品は、もっとも古いものなのだ。
そしてもっとも見えにくくなっている作品は、19世紀のものなのである。… プリミティヴの知恵者たちは、われわれとはまったく違って、迷わずに一ペんで作品の構想をまとめあげると同時に、忍耐強く少しずつ着実に部分から次の部分へと制作をすすめ、描き迷って直したりしない。」
この油彩画技法を画家が考え出した背景には何があったのか。それは「私」が現に見ている世界の再現、すでに様式化され完成された世界像を繰返し描くことから脱して、画家個人の目で見た世界を描くことへの情熱だったのではないかと思う。
世界をその奥行き・立体感のままに描くには、微妙な明暗・色価、様々な物の質感を表現できる繊細かつ自由(フレスコやテンペラと比較してだが)な絵具―油彩画が必要だった。
しかし、現代と比べれば遥かに制約の多い技法でヴアン・アイク達が世界を探求できたのも、信仰に支えられ安定した先入観としての世界像が彼らの内にあったからだ。少なくともひとつの作品を仕上げるまでの数ヶ月間は、フランドルの画家達にとって世界像のほんの小さな変化すらなかったし、また彼らが画面に捕えた自然の形態に不確実性を感ずることもなかった。
中世の神の権威のもとに築かれた伝統様式に反旗を翻しながらも、画家はまだ神の手の内に留まっていた。その神が遠近法一客観性という神で立替えられる場合もあっただろうが、画家は地図を持って世界の冒険へ出たのだ。
だがサイは投げられた、画家は自己の視点で物を見始めた。地図はやがて古くなり書き換えられる。フランドル技法の崩壊の原因は、より人間的・個人的なヴィジョンを求めるという油彩画を生み出した要請の中にすでにあったのだった。人は神から離れ始めた。神が創ったはずの世界は徐徐に怪しげな不安定なものになっていく。
芸術批評誌オリヴィア1984年8月号(エステティカ・オリヴィア刊)より掲載