ジャコメッティ・危険なる後衛の戦い 3 1983年5月

このジャコメッティを巡るエッセーもだいぶ核心へと近付いてきた。現実を再現しようという絵画は不条理であり、美術史に残る数々の名作も、その表現は部分的かつ不十分なものだった。故に、ジャコメッティの「対象を忠実に眼に見える通りに描く」仕事は、けっして過去の芸術の単なる模倣に終ることなく、彼の仕事自体の不可能性へと至った。

 さて、過去の芸術作品をスクリーンとし、それを通して現実を見ていた私達が、そのスクリーンを取り払った時に、ジャコメッティの道の不可能なことを、絵画とは不条理であることを知るのだが、それと同時に、私達は現実に対する大きな驚きを体験するはずだ。これこそが、不条理な仕事を、なおも続けるか、否かの解答を出してくれる。

 私達が、いにしえの巨匠も、写真も、現実再現に失敗しているのに気付けば、すなわち、現実に対する固定観念が崩れれば、私達の世界に対する新しいヴィジョンが現われる。

 ジャコメッティ自身の経験を述べよう。
彼は、戦後、ある映画館で、それはニュース映画だったが、スクリーン上に人物が見える代りに、ぽんやりとした白と黒のしみを発見する。彼は自分が何を見ているのか解らなくなる。スクリーンの映像は現実の何にも似ていないことに、それは平面上の動くしみにすぎないことに気付いたのだ。

が、変化したのは、スクリーンよりも彼の周りの現実の光景だった。現実がスクリーンの映像とは違うものになった。その時、既知の凡庸な現実は、素晴らしい未知の世界に変った。それは、誰によっても描かれたことのないもの。だから、ジャコメッティは自分で描いてみなくては、現実が何ものなのかさっぱり解らなかった。

 すなわち、ジャコメッティにとって、芸術とは、未知の現実を理解するための手段なのだ。作品を創ることが目的ではなく、彫刻、絵画、デッサンによって、眼に映る対象を、よりよく見ることが重要なことだ。

ものの外観を理解しようとするなら、それを描くべく見る行為ほど、対象に集中できる方法は他にない。対象に対する先入観から離れて、その外観に魅力を感じてさえいれば、誰でも素朴に描きたくなるはずだ。しかし、現代、ジャコメッティのように仕事をする画家はいない。彼の言葉−

「フージュロンのようなレアリストは勿論問題外だ、いわゆるレアリストは真のレアリテを少しも見ていない。しかし、アブストレの連中も同じように既成概念にとらわれている、なぜなら彼らは、現実は眼に見えている、だから現実は描く必要がないと思っているのだ。ということは現実を見る彼らの眼が十九世紀的なレアリストの眼と同じだということだ。」−続いて

「それでは現代の画家あるいは彫刻家の中で、誰の仕事があなたの仕事に比較的近いと思いまか。」という問いに対して−


「一人もいない。私は不思議でならない。全く同じではないにしても大体同じ方向の仕事をする画家あるいは彫刻家が少しはいてもよさそうなものだが、それが一人としていないのだ。実に奇妙だ。むしろ素直に絵を描きさえすれば誰もが私と同じ仕事をするはずだと思われるのだが。

画壇のことを少しも知らない日曜画家だけが私の仕事に比較的近い絵を描いているのかもしれない。絵画のことを何一つ知らない田舎の婆さんに絵筆をもたせたら、きっと私と同じように描くだろう。そうだ、田舎の婆さんはきっと私よりもうまく描くにちがいない。」

 今は、具象の画家であろうが、非具象の画家であろうが、意識して作品を創ろうとしている。作品が目的になり、現実は口実になっている。美術家にとって、現実は取るに足らないもの、表現し尽されたものになってしまった。彼らのヴィジョンは過去の芸術に縛られ自由を失っている。ジャコメッティは、彼らに厳しい―

「レアリスムは終ったなどと言う者はレアリテを見ることを知らないのだ。自然は無限に豊かだ、それは見るたびに新しい姿であらわれる。」

「彼らにとって世界は空っぽなのだ。」なにも賢明なる前衛に準じて道を変える必要などなかった。現実を再現した作品を創ることが不可能であっても、現実を素晴らしい未知の世界と感じる以上、それをよく見、理解するためには、何も考えず、対象を忠実に模写しなくてはならぬ。

 また、画家が対象を素直に描こうとすれば、彼の現実に対するヴィジョンは進歩する。現実はさらに新しい様相を示す。ヴィジョンが進歩し、対象の新しい姿が見えてくれば、画家にとって、描かれた作品はいっそう失敗に感じられる。描けば描くほど、現実がよく見えてきて、日毎に世界が大きくなって行く。

作品も進歩するが、ヴィジョンはさらに先へ進み、作品と現実の開きはますます大きくなる。制作はけっして終らない。中断された失敗作のみが残る。完成された作品はできない。

 近代最大のレアリスト、セザンヌが、どれはど自己の作品をぞんざいに扱ったことか。彼の水彩画はエクスの森に散らばり、油彩画はアトリエで踏まれた。真のレアリストにとって、作品は現実に至る手段にすぎず、それらはすべて失敗作なのだ。今日の仕事が、昨日の仕事を破棄していった。

 画家にとって大切なのは、描いている時に、対象から感ずる感覚であり、仕事を離れた時には、いっそう豊かになった無垢の現実を見られるということだ。

 さて、今まで述べてきたジャコメッティの芸術観は、美術の道を歩もうとする私にとっては、ひとつの救いとなり、道標となった。でも、もっぱら芸術を鑑賞する立場の人々から見れば、芸術作品の価値を下げただけかもしれない。が、私がこの場で書いてきたことは、ともすれば芸術よりも下に置かれがちな現実を、言い換えれば、生活を、人生を、芸術より上の本来あるべき所まで引き上げることだった。

たしかに、芸術作品になんらかの相対的価値を見つけることは可能だろう。それは、私がここで語るまでもない。注目したいのは、ジャコメッティの冷静な芸術の位置付けだ。−

「生きるかわりに一つの頭を写そうとして時間を潰し、同じ人物を毎晩椅子の上に五年間も不動にして成功もしないのに模写しようとし、続けようというのは、どう見ても常軌を逸している。これは正確には正常な仕事とはいえないでしょうね。特定の社会でなければこんなことはとても赦されない。他の社会なら赦されるはずがないのだから。

こんなことは社会の全体にとっては役に立たないことだ。純粋に個人的なことだ。それだけでも極めて利己的な人騒がせなことだ。あらゆる芸術作品はもっぱら無のために生み出される。ああ、あらゆる時は過ぎ、あらゆるあの天才たち、あらゆる作品は結局、絶対的な面では何の用をもなさない。いま現在、現実を捉えようとして直接身に感じるこの感覚を除けば。

そして冒険、偉大な冒険とは同じ顔の中に日ごと見知らぬものが現われるのを見ることだ。それは世界を廻るどんな旅行よりも偉大なことだ。」

 ジャコメッティの「対象を忠実に眼に見えるとおりに描く。」仕事は、何の基準も持たず、人間の理解を超えた巨大な自然に向うことであり、不条理な状態に留まることだ。これは、あまりにも危険な孤独な戦いだった。彼の道は美術界とは無縁だった。後継者はいない。

「確かに私はこの冒険を生きている。してみれば、成果があろうとなかろうと、それが何だというのだ、展覧会に出品したものが成功していようと失敗していようと、私にとってはどうでもいいことだ。いずれにしてもそれらは私にとっては失敗なのだから、他の人々が眺めてさえくれないのが当り前だと私は思う。私は何一つ求めない。死にものぐるいで仕事を続けることのほかは。」


芸術批評誌オリヴィア1983年5月号(エステティカ・オリヴィア刊)より掲載