アルベルト・ジヤコメッティの「対象を忠実に眼に見えるとおりに描く。」仕事は、私達を何処へ導くのか。
ある前衛美術家は言うだろう、それは懐古趣味へ、美術史の繰り返しへ陥らせると。また、美術愛好家は主張する、そんなものは写真の前に惨めに敗れ去るだけだと。そうだろうか。ここで実際に「対象を忠実に」描こうとする時、どのようなことが起こるかを、考えてみる必要がある。それによって、ジャコメッティの行く先が見えてくるにちがいない。
例えば、画家がすぐ近くに座る人物を描こうとする場合、顔と、膝に置かれた手を、同時に見て、相互の関係を確認することができるだろうか。顔を見る時には手を忘れている。頭部だけに限ってみても、鼻の先をじつと見詰めれば、目の位置が解らない。
人物の各部は互いの関係を失い、全体像は捉めない。次に、まず全体像から捕えようとすると、今度は人物のイメージがおぼろになり、映像は細部を失う。その形体は、まったく確定しない。ジャコメッティは、絶望する。
「鼻の一方の翼と他方の翼との距離はまるでサハラ砂漠だ、涯しなく、何一つ固定されず、すべてが逃れ去る。」
最初から、見ることからしてあまりにも困難だ。それでは困難を避け、全体を見やすくするために、人物を遠ざけてみる。すると、人物は子供のように小さくなり、本来の大きさを失ってしまう。
したがって、人物本来の大きさを取り戻すため、画家と人物の間の巨大な空間を表現しなければならぬ。では、小さな画布上、数糎に、その数倍、数十倍もの空間が描けるか。ジャコメッティは答える。
「二十糎の長さをもつように見える線を画布の上の三糎の空間に描くことは不可能だ。人間的に不可能なことだ。」
画家は、部分と全体に分かち得ない対象を、確実性をもって見ることも、それを画布に定着することもできない。この「対象を忠実に−」の道は、不条理である。しかし、何よりも感性に従おうとする人々は、このような説明を聞いても納得しないだろう。なぜなら、彼らにとっては、現実に対するヴィジョンを実現したいくつかの絵画が確かにあり、さらに、写真はその実現に成功していると思われるからだ。
が、それは違う。と言うのは、ほとんどの場合、人は現実そのものをけっして見てはいないからだ。人はスクリーンを通して現実を見ている。観者と対象の間には、過去の芸術作品(とくに、いわゆるレアリスム絵画)や写真が入り込んでいる。(現実の見方においては、いわゆるレアリスムと写真はほぼ同じものだ。)
故に、こう言って良いだろう「絵画や写真が現実に似ているのではない人が現実を絵画や写真に似せて見ているのだ。」と。
写真や絵画のようなスクリーン、すなわち現実に対する先入観を棄て、改めて、現実を見た時、再現美術の不可能性が実感となるだろう。
とすると、いにしえの巨匠達は何を成したのか。実の殿堂・ルーヴルにて、ジャコメッティは望みを失う。
「過日ルーヴルに行ったとき、私は逃げ出した、文字どおりに逃げ出してしまった。すべての作品が何とも憐れに見えて−全く憐れな心もとないやり方で、物凄く広大なものを囲おうとして、あらゆる手口で、それも非常に簡単な、初歩的な、素朴な手口で数百年にわたってロ吃りながら近づこうとしているという感じだ。
私はがっかりして生きている人々を眺めていた。だれもこの生命を完全には摘めないということがわかった……そんなことに取り組むのは全く悲劇、冗談もいいところだ。」
さて、前回の問題提起のひとつである「対象を忠実に ―」という仕事の可能性について述べてきた。そして、それは不可能な、不条理な道であり、長い敗北の歴史だった。ならば、この不条理な仕事を、なおも継続すべきか。それとも、賢明なる前衛に準じて、道を変えるべきか。これに答えねばなるまい。
※参考資料「ジャコメッティ 私の現実」みすず書房芸術批評誌オリヴィア1983年4月号