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何を書くか判らずに書き出すのも良いと思う(公開していても日記である)。専門学校の3DCGクラスで人体描写を中心としたデッサンを教えている。要するに仮想空間に「ターミネーター」を造れるようにと言うわけだ。当初、究極目標は俳優いらずの映画制作だと思っていた。それが実際に出来るかどうかは脇へ置いて。
制作中の人物画にひとつだけ現実のモデルから離れて架空人物を作ろうとしている作品がある。それが、どうにも我慢できなくなってきた。モデルとは形態を提供する単なる「典型」ではもうないようだ。それは近代絵画が生み出した新しい「モチーフ」なのだろう。
最近、人物画に稚拙ながらも物語を盛り込むよう努めている。かつて自分の中では「文学的」とはあまり良くない、あるいは古い絵画表現を指していた。「音楽的」であって欲しかった。そして今、「映画」の方向へ流れ出した。映画について詳しくもなく、ファンと言う意識もないが。
映画というのは文学よりも演劇に近い表現だろう。鑑賞者は現実世界を離れて架空の世界に遊びたいわけだが、上手く騙して欲しいと願いながらもそれが嘘であることは心の底でわきまえておきたいものだ。演劇そして映画では俳優がその役割の多くを担う。パラレルな関係にある作品と現実を結びつける。タイタニックに乗った絵描きのジャックは同時にレオナルドでなくてはいけない。
自作の油彩画「志賀直哉に寄せて・待つ」は、奈良にある志賀直哉邸を舞台として彼の悲劇的な小説に出てくる暗い影を持ったヒロインを意識して描いたものだ。「待つ」というタイトルの方は太宰作品から拝借していてまた別なイメージも絡ませてはいる。しかしながら、実はこの小説の主人公に相貌を与えたくてこの絵を描いたのではない。最初の制作動機は、ある特定のモデル、身近な人の顔を描いてみたかっただけである。
だから、彼女が小説のヒロインであるだけではダメなのであって、職場の同僚、家庭の主婦でなくてはならない。そうでなくては絵を描く気に全くならない。私が最も魅力の感じない女性とは作られた「理想の女性」だ。ネットのあちこちで見かけるアニメ調美少女はなんと空疎で虚ろな自己完結を示していることだろう。
志賀直哉の代表作「暗夜行路」の前編最後に胡蝶の夢の一節が出てくる。この夢の話を最初に知ったのは南伸坊氏のエッセイ「エッシャーなんか不思議じゃない」での引用だった。エッシャーのからくり絵画より、人間が蝶になる夢を見たのか、それとも蝶が夢見ているのかと言う荘子の方がずっと神秘だと書いていた。また、中島みゆきがスタッフを亡くした時に作った曲「永久欠番」では宇宙的な時間の流れに対する人生の価値を問いかけている。演劇や映画で役者がその役を生きる時間は相対的に僅かかも知れないが、「本当の自分探し」など信じない私は、どちらの「生」がより価値があるか、より真実か簡単には片づけられない。実は常人だが狂人のふりをしているなどと言う人は狂人だろう。キューブリックの映画「アイズ ワイド シャット」、妻の抱く妄想より夫の体験する現実の方が奇譚である。
近代以前、神話や歴史、風俗画の主要な要素として描かれた人物像を除けば、人物を描いたものとは概ね肖像画のこと指したと思う。しかし、現在、人物画は必ずしも特定の人の肖像画とはなっていない。モデルが誰かはっきりとしていてもである。セザンヌは「セザンヌ夫人」を何枚も描いているが、これらは果たして妻の肖像画だろうか。そして、セザンヌ夫人は人物形態の「典型」を提供する「モデル」でもない。彼女は画家によって発見された「モチーフ」なのだ。
嘗て、制作の実体、自己にとっての切実さから離れ、構成がどうの空間がどうのとステレオタイプなセザンヌ論を書いたことがある。しかし「現代美術の父」から実質的に受けた大きな影響は、テーマを持てない自分に新しい「モチーフ」という価値を示したことである。実際の制作を見れば、「モチーフ」が「テーマ」を生み出していた。だが、これは希に起こる幸運な例で、ほとんどは何も生むことなく終わるのだけれども。
残念ながら非常に消極的な「モチーフ論」も説得力を持って存在する。私をはじめとして多くの画家がテーマを持てないのは事実でも、アンゼルム・キーファーのような壮大なものから、フリーダ・カーロのように私的なものまでしっかりと自分のテーマを持って創作している画家だっているわけである。自分の場合は、受けてきた美術教育に対する恭順性、ここでの美術教育とは義務教育や高校教育での「美術」のことではなく、美術系大学受験を代表とする専門教育のこと、これによるもので、モチーフを強制的に与えられて短時間で制作を終わらせることに創作者としての基盤を作るであろう年頃の数年間を費やしてしまったためかもしれない。
統計的根拠など何もなく記憶と印象から言えば、二十歳前後の多感な時期を普通大学等であれこれ悩んで過ごし、一念発起して比較的入学のしやすい外国の大学で専門美術教育を受けた人に自分のテーマを持った良い作家が多いような気がする。要するに、テーマが無いのは自分の頭で考える癖を付けて来なかったからで、現代美術のテーマ紛失論なんて打ち上げるのは、それこそ自分の実情に即していない。これでは全くもって情けない。
どこかの国の教科書問題ではないが、「自虐的」に考えているばかりではない。自分自身の「画歴」に支配されているとはいえ素直な感覚で、今時「テーマ」なんて信じられないのである。
例えば、レンブラントは私の好きな人物画家のひとりだが、彼の現代に生きる魅力はテーマなんぞすっ飛ばして迫ってくるモチーフの存在感である。フローラもダナエも関係ない、自分を惹き付けるのはサスキアとヘンドリッキエだろう。もちろん、テーマというクッションを入れて「妻の肖像」としなかったことも大切だとは思う。しかし、時代を越え、文化をも越えて伝わるのはテーマではなくモチーフである。テーマ不明の「名画」を私達はいっぱい持っているではないか。少なくとも私にとってテーマとは外部から強制される制作条件だ。
突然、反動的になってしまったが、「赤い糸」を信じるのでなければ、テーマを持つのは(持たされるのは)イラストレーターと売り絵画家となる。
最近の制作では職業モデルを使うことがほとんどなくなった。学校の授業で学生と共にモデルを描くこともない。でも、学生同士がお互いを描くような場合ならば一緒に描く。単に人間の形を提供する素材としてのモデルに対しては制作意欲が湧いて来ない。モデルは、画家によって見出された「モチーフ」でなければならない。
かつて、ローバート・ラウシェンバーグは絵画に現実の素材を導入することで、パラレルな関係にあった現実と芸術をコンバインしたが、モデルは今、典型を離れ、特殊で現実的な存在として虚と実を行き交う媒体なのだ。画家は女を描いているのか、絵を描いているのか、定かではない。
プロの画家なら何も見ないでヌードくらい描けなければいけないと言ったのは藤田嗣治だ。また、高校生の頃、モデルなしでリアリスティックな人体が描けるようになりたくて解剖学の本を漁ったものだ。そのような描写技術獲得の魅力と言うのも確かにある。しかし、自分の中に住む理想の美少女なんぞになんの興味が湧こう。モチーフという外部世界との格闘抜きでなにが面白い。他者(鏡に映った見知らぬ「自分」を含む)という実在がなくては自己の内面など描きようがないのだ。
可能性を仮定しての話だが、コンピューターの3DCGソフトが極限にまで発達するとか、画家が解剖学、描写力を極めるとかして、全く自在に人間の姿を造れるようになったらどんな表現が生まれるだろうか。いや、実はこんなことはどうでも良いのだ。私はそんなものにはとっくに興味を失っているから。
手塚治虫氏の大人向けの作品に「地球を呑む」と言うのがある。男に裏切られ復讐を誓った女が、人工皮膚を開発し、それで絶世の美女の被り物を作る。彼女の娘たちがそれを使い世界中の男達を虜にしてたぶらかす話だ。ゼフィルスと名付けられたその被り物は古今の芸術作品、各国の美人女優をブレンドして形作られた完璧な女である。これを被った女達にみんな騙され手玉にとられるが、たったひとりの例外が飲んだくれの主人公である。最後の方で彼がゼフィルスを脱いだ娘に言う「あんたの方がずっとチャーミングだ」。
芸術作品は芸術以外のものでできている。女優のいらないCG映画など私は見に行かない。そして、幸か不幸か自分にはモデルなしで絵を描くには技量が不足している。理想は妄想と紙一重だ。芸術は抽象的、幻想的であっても妄想的ではない。自己を客観化できない「オタク」から芸術が生まれることはないだろう。
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