雪舟
日本的なものの可能性(2)前編

私が学生の頃、竹橋にある国立近代美術館へ、日本のキュビスムの企画展を見に行ったことがある。そこで、日本のキュビスム展とは別に常設で岡本太郎の大きな油彩画を階段の上に見つけた。その時、私は日本人と西欧人の空間感覚の違いをはっきりと確認した思いだった。

 当時、絵画において最もこだわっていたのは、空間あるいは奥行きの問題だった。絵画は本質的には平らな物だという美術界のひとつの常識にどうしても納得できないものを感じていた。だから、セザンヌの次に興味ある画家となるとベラスケスへ飛んでしまう。ベラスケスはルネサンス的空気遠近法の完成者であり、セザンヌは近代的絵画空間の創造主である。

ただ、ベラスケスはイタリアルネサンスを継承し、セザンヌは孤独に苦心した。岡本太郎の作る空間はセザンヌともベラスケスとも違っていた。彼の空間は、絵の中の様々なモチーフ、動物の頭のようなものや原色の民芸品のようなものの飛び回る場と感じた。逆から言えば、絵の中で多くのものが画面から飛び出さんばかりに動めくことによって空間が暗示されている。

ムーヴマンの形成はもちろんセザンヌにもあるが、それは結果としてモチーフの運動よりも空間の量を感じさせるものとなっている。セザンヌやベラスケスの絵の中には何リットルかの透明な空気がある。岡本太郎の絵には、いやたぶん多くの日本人画家の絵にはものが動めく真空の間があるのみではないだろうか。

 また、日本人が絵画の中で物を動かす時、それは画面秩序を志向する構成要素というよりも、作者の感情移入によって活力を得たひとつの生き物と化していくような気がする。作者の感情を最も直接伝え運動を表現する手法は、筆勢 タッチの強調である。

東京都国立博物館にある国宝「桧図」、これは桃山時代を席巻した狩野派の作品である。この桧の幹や枝には木の成長の方向にそったタッチが見られる。そのタッチからは、こっちへ行けとつぶやく作者の声が聞こえてくる。それは作者の意志や感情を代弁して、木の伸びる方向を示す。そして、その幹や枝の動きが主となり空間を暗示している。

その動きは作者の感情の流れでもある。桧は単なるモチーフではなく作者の化身なのだ。この作品とほぼ同時代の水墨画、海北友松の熱海美術館にある「山水図屏風」は余白を大きく取り、軽妙に描かれ、豪華で巨大な「桧図」とは違った別の日本性を感じさせる。

しかし、タッチの性格は狩野派のものと本質的には同じである。例えば、「山水図屏風」に描かれている建築物の線は横に広がる余白の空間へ向かって水平方向の勢いを示し、作者の意図や手を感じさせる線となっている。軽妙な手腕を見せたい作者の気持が判る。

同じ友松の「松に鳥図襖」では、タッチは松の生命力を直接表現し、同時に作者の自己表現となっている。このようなタッチは長谷川等伯にも見られる。それがはっきり出ているのは中国の大家牧谿を模した東京都博物館にある「猿猴図」で、タッチがそのまま枝となり画面を飛び回り空間を暗示している。

これらの表現主義的なタッチによる空間表現は、私達の日常生活の場である三次元世界とは違った精神世界を創っている。作者の意志の飛び回る真空世界なのである。ここには西欧的な空間の量の感覚が欠如している。

 長谷川等伯の私淑の師、雪舟はこれら後輩達とは違う空間を創った。雪舟は空気の量を形成した。そして、そのタッチは、後輩らと比較すると、ずっと無意味で無表情なものである。雪舟にとってタッチとは表音文字のようなもので、それひとつでは何も表現しない。どんな意図も、感情も含まない。等伯や友松のようにタッチが表意文字的に枝そのものになることもなく、ただの黒い染の変種にとどまる。タッチは全体の構想に従い抑制される。そして、他のタッチとの相互関係においてのみ枝となり葉となる。彼の意志は全体の構想の中に表れる。構想に従い組織化されたタッチは空間の量を表現する。

 続く

芸術批評誌「オリヴィア」1987年3月号(エステティカ・オリヴィア刊)より掲載