雪舟
日本的なものの可能性(1)後編

 雪舟は、中国の古典や、彼にとっては同時代であった明の水墨画までまねすることから始める。日本的な折衷水墨画を描くというよりも、そっくり模写したり模倣する。様々な中国様式を描きわけてみせるその器用さはまさに日本人と言えるかもしれない。

 現代、私達は室町時代に輸入された中国絵画様式の多様性とは比較にならない美術様式の多様性の中にいる。今、芸術家は自己の様式の選択、あるいは確立に悩んでいる。だが、雪舟が普通、画家の成熟期と思われる60歳代まで研鑽を積み様々な様式を学んだこと、真の自己の確立が67歳の作品、山水長巻に見られることは、私達に多様なものを拒絶することなく渾沌の中に生き続ける勇気を与えてくれないだろうか。また、雪舟は、まねばかりがうまく独創性に乏しいと言われる日本人にとって、少々例外的ではあるが心強く思えるのではないか。

なぜなら、雪舟は中国絵画を超えて、別の新しい表現を創っているように思えるからである。しかし、同時に、残念ながら雪舟が切り開いた新しい水墨画は、ほとんどその後の日本絵画の伝統の中に生かされていないように思う。彼は日本人画家の中で特殊な位置にいる。そう、雪舟だけが孤立して『セザンヌ』なのだ。

では、その雪舟の水墨画はどのようなものなのだろうか。水墨画とは水と墨を使って、紙や絹に描くモノトーンの絵である。人物も静物も時には動物も描かれるわけだが、もっともよく知られているのは山水画という風景画である。雪舟の山水画は、師である周文等先輩の絵と違って、自然の実感に基づいて描かれていると言われる。

確かにそうなのだが、彼が私淑した宋や元の山水画と比較するとあっさりして見える。しつこく細かい所まで、びっしりとは描かれていないし、ものの形態よりも形式化、抽象化されている。自然の姿に従いながらも、対象との間に距離を置いている。対象に取りつかれてはいない。

中国の画家、例えば郭煕や范寛の山水画は執拗な自然描写ゆえに少々悪魔的な心象風景となっている。一方、雪舟の山水画は、そのような感情の発露よりも、力強く画面を構成する知性を感じさせる。それは日本的なしゃれたセンスなどというものではない。

どのような絵画にも構成はあるわけで、問題はどんな構成をとり、それが画家のどんな指向を示しているかである。構成とは、雑然とした自然の総合を目指す画家の意志の現れとも言える。雪舟は、中国絵画の中で自然の執拗な描写に隠れているこの画家の意志を読みとり学んだ。中国の緻密な山水画は人が『絵』を見れば『木』が見えず、『木』を見ようとすれば『絵』が見えないという矛盾を示している。しかし、それをまねた日本の画家と違って『絵』-画家に創造された抽象的存在、あるいは画家の意志、あるいは構成-も強いし、『木』-自然、あるいは再現像-の実在感も強い。ただし、このふたつは不幸にも少しけんかをしている。雪舟はこの中国の巨匠達の長所を受け継ぎ、矛盾を解決しようとしたのである。

 雪舟の構成は実に力強い。彼の絵の基本構造はひと眼見ただけではっきりとわかる。画面を分割する水平線、垂直線、そして対角線、実に明解でそれらは絵画が四角い平面であることを示すとともに風景の深い奥行きを創っている。この画面全体を支配する構成のリズムは細部描写にまで貫徹された見事な統一感を形作っている。

風景の中に小さく入る人物達は、全体を構成するタッチから離れて、必要以上に細かく描かれることはなく、他の岩や樹木のフォルム、絵画の基本構造との関連の中でフォルムが決められている。それらしく描かれている木の葉の描写も、近付いて見れば、大まか、かつ抽象的で画面全体の明確な構成を思わせる。

西洋絵画の伝統において、構成といった場合、それは単なる平面的な配列の問題ではなく、空間・奥行きを含むのである。次に、私は雪舟の独特なタッチと空間表現の問題について述べようと思う。

続く

芸術批評誌「オリヴィア」1987年2月号(エステティカ・オリヴィア刊)より掲載